圓福 第103号
圓福 第103号
謹啓 毎年、万が一のことを考えて、雪用のタイヤに替えるのですが、今年は結局、替えずに冬も終わってしまいました。振り返れば、今年の三河の冬は、暖冬でした。おかげで、境内のしだれ梅も例年よりも早く満開になり、散り始めています。季節の変わり目ですが、皆様におかれましては、如何お過ごしでしょうか、お伺い申し上げます。
さて、今回も、法然上人のお言葉から、私達の日常生活が、明るく、楽しく暮らせるように、心の持ち方、あり方を学びたいと思います。
罪障の重ければこそ、罪障を滅せんが為に念仏をば勤むれ、
罪障重ければ、念仏すとも往生すべからずとは、疑うべからず。
「罪深い私たちです。その罪を滅するために、お念仏を勤めるのです。罪深いからお念仏をしても極楽には行けないと疑ってはなりません。」
罪障とは、知らず知らずに犯してしまう過ちなど、仏教の戒律から外れた行為です。例えば、三毒といって、私たちは、一つ、欲望のまま求めることが多く、二つ、得られないと怒り、三つ、愚痴をこぼしてしまいます。
私自身も家族を乗せて運転している時、急に指示器もなく止まったり、曲がったりする車が前にあると、「危ないなあ」と声を出して愚痴をこぼします。すると、隣で、「お年寄りの人かもしれないでしょ。怒ってもしょうが無いでしょ。」と言われます。私は、「怒っていないよ、文句を言ってるだけ」と言い返してしまいます。そして決まって「いつもこれだものね」と飽きられます。車の運転が嫌いなので、気付けば文句ばかり言って運転しています。余裕がないのは、私の方でした。相手を思いやり、ゆったりとした気持ちで運転していれば、イライラしたりせず、楽しいドライブになることでしょう。こんな私だからこそ、お念仏の生活を法然上人は勧めて下さっています。法然上人は、重い病人には、薬が必要で、病が重いから薬など効かないと思えば、病は軽くなるどころか返って悪くなるばかりだとおっしゃっています。よりよい人生を歩むことが出来るのに、わずかな人生経験だけで、疑いの心を持って、正しい言葉に耳を傾けず、尊い教えを遠ざけることは、もったいないと言わざるを得ません。
いよいよ春のお彼岸を迎えます。先立たれた方々に手を合わし、心から感謝の祈りを捧げましょう。是非、ご家族皆様、おそろいでゆっくりと、お参り下さいますようご案内申し上げます。
三月十九日(火)
午前十一時半 | 昼食接待 |
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午後十二時 | 説教(住職、阿弥陀院、欣浄寺) |
一時半 | 彼岸施餓鬼法要 |