圓福寺の歴史
圓福寺の歴史
円空上人が京都深草の里に真宗院を建立したことに始まります。
円福寺(えんぷくじ)の歴史は、建長三年(一二五一)浄土宗の西山深草派祖(せいざんふかくさはそ)円空(えんぐう)上人が京都深草の里に真宗院(しんじゅいん)を建立したことに始まります。円空上人は、浄土宗を開いた法然(ほうねん)上人の孫弟子に当たり、師匠西山(せいざん)上人から法然上人の教えを正しく受け継いだ方です。
真宗院はその後、円空上人の門弟で、百巻以上の著述を残して深草派の教義を大成した顯意(けんに)上人に受け継がれましたが、たび重なる火災により焼失してしまいました。
徳治元年(一三〇六)顯意上人の門弟・道意上人が真宗院復興の志を起こして、京都猪熊綾小路(現在の四条大宮付近)に仏閣坊舎を建立しました。まもなく、時の花園天皇より「円福寺」の寺号、および勅願所の綸旨と荘園を賜り、浄土宗西山深草派の根本道場が確立されました。
三河地方に流れを汲む寺院が二百ヶ寺ほどあります。
円福寺第三世堯恵(ぎょうえ)上人は、他宗派からもその講義を聴聞に来るほどの優れた学者で、数多くの門弟を育てました。その弟子たちは、それぞれ各地方に赴いて念仏道場を建立しましたが、中でも岡崎市中山の法蔵寺開山・龍芸(りゅうげい)上人は、同朋門下あわせて五十余名を率いて三河国にお念仏を広めた功労者です。現在では三河地方にその流れを汲む寺院が二百ヶ寺ほどあります。
円福寺は歴代天皇や貴族たちの厚い信仰を受け、京都の中心部に繁栄を誇っていましたが、応仁元年(一四六七)京都を焼き尽くした応仁文明の乱により、荒廃への道を余儀なくされました。この頃、同じく法然上人ゆかりの寺院である洛陽誓願寺との交流が始まります。
十六世紀末期、豊臣秀吉の寺町整備に際しては、境内地を四条寺町の一角に移しました。同じ時期に、誓願寺も三条寺町へと移転しましたので、北にある誓願寺を「北本山(ほっぽんざん)」、南にある円福寺を「南本山(なんほんざん)」と呼ぶようになりました。この二ヶ寺が文字通り深草派の中心寺院だったのです。
朝廷より常紫衣の勅許を受けました。
寛文十二年(一六七三)円福寺中興三十世徹翁(てつおう)上人は、朝廷より常紫衣の勅許を受けました。紫衣の勅許は、通常、住職が変わるごとに申請しなければなりませんが、常紫衣とは、円福寺歴代が永久に紫衣着用することを認めたものです。このことからも、円福寺の格式が非常に高いものであることがわかります。
元禄十二年(一七〇一)勧修寺門跡二品法親王による「円福寺」の扁額が下賜されました。これは現在も本堂内殿に掲げられています。この頃、円福寺の堂塔伽藍は最盛期を迎えました。その面影は、当時の京都の様子を描いた『都名所図絵』に偲ぶことができます。
しかし天明八年(一七八八)元治元年(一八六四)と京の都は大火災が続き、さらにまた明治維新の際には役所により、広い境内地はほとんど没収され、円福寺は本山としての様相を失ってしまいました。(現在の京都、新京極、寺町京極の約三分の一に相当します。わずかに円福寺町という町名のみ残っています)
宗派を挙げての協議の結果、三河地方に移転
明治十六年(一八六三)廓空(かっくう)上人が第六十三世特命住職となり、宗派を挙げての協議の結果、檀信徒の多い三河地方に移転する話が持ち上がりました。南本山円福寺は、岡崎市岩津の妙心寺と寺号を交換することになったのです。
妙心寺は寛正二年(一四六二)徳川家の祖といわれる松平信光公(徳川家康より六代前の祖先)が建立した寺院で、同じく松平家出身の教然(きょうねん)上人が開山です。教然上人は、龍芸上人の兄弟子・浄俊上人の門弟です。すなわち、その法脈をたどれば円福寺にあります。岩津の地に移転することになったのも、いわれのあることなのです。
妙心寺は檀林(だんりん)つまり僧侶養成所として三河地方の深草派を統合してきました。いわば本山に準ずる寺院でしたから、円福寺が移転するにふさわしい環境でした。その偉容は、現在まで失われていません。円福寺は、本尊を始めとして移動できるものは全て移したうえで、旧妙心寺の境内を継承しました。
岩津の地に移転してからはわずか百年ほどですが、大本山円福寺は、京都でも三河でも、僧俗を問わず人々の心のより所となってきたのです。
山門(総門)には葵の紋があります。 奥には大梵鐘が吊されている鐘楼門も見え、前庭の大楠の葉も見えます。 その奥に見えるのは本堂で、安永九年(1780)の建立です。 平成十四年(2002)に大改修がなされ、同十一月に落慶法要が営まれました。
円福寺(えんぷくじ)の歴史は、建長三年(一二五一)浄土宗の西山深草派祖(せいざんふかくさはそ)円空(えんぐう)上人が京都深草の里に真宗院(しんじゅいん)を建立したことに始まります。円空上人は、浄土宗を開いた法然(ほうねん)上人の孫弟子に当たり、師匠西山(せいざん)上人から法然上人の教えを正しく受け継いだ方です。
真宗院はその後、円空上人の門弟で、百巻以上の著述を残して深草派の教義を大成した顯意(けんに)上人に受け継がれましたが、たび重なる火災により焼失してしまいました。
三河地方に流れを汲む寺院が二百ヶ寺ほどあります。
円福寺第三世堯恵(ぎょうえ)上人は、他宗派からもその講義を聴聞に来るほどの優れた学者で、数多くの門弟を育てました。その弟子たちは、それぞれ各地方に赴いて念仏道場を建立しましたが、中でも岡崎市中山の法蔵寺開山・龍芸(りゅうげい)上人は、同朋門下あわせて五十余名を率いて三河国にお念仏を広めた功労者です。現在では三河地方にその流れを汲む寺院が二百ヶ寺ほどあります。
十六世紀末期、豊臣秀吉の寺町整備に際しては、境内地を四条寺町の一角に移しました。同じ時期に、誓願寺も三条寺町へと移転しましたので、北にある誓願寺を「北本山(ほっぽんざん)」、南にある円福寺を「南本山(なんほんざん)」と呼ぶようになりました。この二ヶ寺が文字通り深草派の中心寺院だったのです。
朝廷より常紫衣の勅許を受けました。
寛文十二年(一六七三)円福寺中興三十世徹翁(てつおう)上人は、朝廷より常紫衣の勅許を受けました。紫衣の勅許は、通常、住職が変わるごとに申請しなければなりませんが、常紫衣とは、円福寺歴代が永久に紫衣着用することを認めたものです。このことからも、円福寺の格式が非常に高いものであることがわかります。
元禄十二年(一七〇一)勧修寺門跡二品法親王による「円福寺」の扁額が下賜されました。これは現在も本堂内殿に掲げられています。この頃、円福寺の堂塔伽藍は最盛期を迎えました。その面影は、当時の京都の様子を描いた『都名所図絵』に偲ぶことができます。
しかし天明八年(一七八八)元治元年(一八六四)と京の都は大火災が続き、さらにまた明治維新の際には役所により、広い境内地はほとんど没収され、円福寺は本山としての様相を失ってしまいました。(現在の京都、新京極、寺町京極の約三分の一に相当します。わずかに円福寺町という町名のみ残っています)
宗派を挙げての協議の結果、三河地方に移転
明治十六年(一八六三)廓空(かっくう)上人が第六十三世特命住職となり、宗派を挙げての協議の結果、檀信徒の多い三河地方に移転する話が持ち上がりました。南本山円福寺は、岡崎市岩津の妙心寺と寺号を交換することになったのです。
妙心寺は寛正二年(一四六二)徳川家の祖といわれる松平信光公(徳川家康より六代前の祖先)が建立した寺院で、同じく松平家出身の教然(きょうねん)上人が開山です。教然上人は、龍芸上人の兄弟子・浄俊上人の門弟です。すなわち、その法脈をたどれば円福寺にあります。岩津の地に移転することになったのも、いわれのあることなのです。
妙心寺は檀林(だんりん)つまり僧侶養成所として三河地方の深草派を統合してきました。いわば本山に準ずる寺院でしたから、円福寺が移転するにふさわしい環境でした。その偉容は、現在まで失われていません。円福寺は、本尊を始めとして移動できるものは全て移したうえで、旧妙心寺の境内を継承しました。
岩津の地に移転してからはわずか百年ほどですが、大本山円福寺は、京都でも三河でも、僧俗を問わず人々の心のより所となってきたのです。
圓福寺の伝承説話
圓福寺の伝承説話
円福寺には、いくつもの伝承があります。
たとえば本尊さまは、法然上人御自作の「厄除如来」とされています。一見、普通の阿弥陀三尊ですが、よく見るとそれぞれ手の形が少し違います。これは阿弥陀さまとお釈迦さま、観音菩薩と文殊菩薩、勢至菩薩と普賢菩薩がそれぞれ一体となったお姿を表しています。
浄土宗は、お釈迦さまと阿弥陀さまが力を合わせて私たちを救ってくださるという教えです。円福寺の本尊さまは、阿弥陀三尊と釈迦三尊が一心同体となって、私たちの目の前に現われた、まさに、浄土の教えそのものを表した大変貴重なものです。
また、総門に彫刻されている「鯉の滝登り」は、有名な左甚五郎の作とされます。その出来があまりに立派で、この鯉が五月になると総門を抜け出し、門前一帯の植田を荒らしていたといいます。困った村人たちは、円福寺に事情を説明し、鯉が再び抜け出さないように、その目をつぶしてもらいました。すると、それからは水田が荒らされることはなく、毎年豊作になったそうです。