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圓福 第114号

圓福 第114号

 境内の桜も満開を過ぎ、桜吹雪に世の無常を感じさせる今日この頃ですが、皆様におかれましては、如何お過ごしでしょうか、お伺い申し上げます。まだまだ、ワクチンが行き渡らない状況の日本においては、第四波が懸念され、日常生活においても不安な毎日が続いております。一日でも早い新型コロナウィルスの終息を祈るばかりです。
 さて、今回も、法然上人の生涯から、私たちの生活の指針となるよう、学んでいきたいと思います。

 
○法然上人の生涯から○

 明遍(みようへん)は、東大寺にて三論教義をきわめ、その勝れた才能は、世間でも認められていた高僧です。しかし、貴族出身である事や、朝廷からの位の授与など、出世に関わる事を嫌い、京都に逃れ、さらに修行を重ね、終には、高野山に草庵を結び、蓮華三昧院を開きます。あらゆる経典を学び、密教も顕教も深く修行しました。ある時、法然上人の著した、「選択本願念仏集」を読んだところ、この書には、偏った見解があると思い、寝床につきました。その夜、夢を見ました。天王寺の西門で、数知れずの病人が倒れて、苦しそうにしています。よく見ると、一人の高僧が、鉢に入ったお粥を匙で、病人の口に入れています。側にいる人に、あのお方は、誰ですかと尋ねると、あの方は、法然上人ですと答えてくれました。目が覚めて明遍は、考えました。自分が選択本願念仏集を読んで、偏った間違いがあると思った事を戒めて下さった夢だろう。上人は、人々を思い時代をよく考えている高僧だ。病人の容体が軽ければ、果物でも喉を潤し、消化も出来るが、重病人なら、重湯しか、消化も出来ないだろう。今の時代に、難しい修行や学問を人々に説いても決して救いにはならない、もっぱらに念仏を唱える事こそ、初めて苦しみの世界から抜け出す教えであると気づき、直ちに、顕教や密教の修行を捨てて、法然上人の教えに入り、自らを空阿弥陀仏と名乗りました。法然上人がお念仏を説かれた時代は、平安時代が終わり、鎌倉時代に入る、戦禍や疫病など混沌とした時代です。市中には亡骸もそこかしこに置きざらし、病人や飢えに苦しむ人々が多く、大変な時代でした。
 毎日が不安なコロナ禍の現在も同じです。不安をあおって、たいして効果の無い健康食品や薬を売り込んだり、いよいよ神の啓示とよくわからない宗教に引き込んだり、仕事やお金が苦しい人々から、うまい話を持ちかけたり、枚挙にいとまがありません。人生において、苦しみはつきものです。けれども、どんな時もお陰さまと感謝の心を持って日々を暮らす事こそ、最も大切です。欲望や愚痴や怒りの煩悩にまみれたこんな私たちを思って下さる尊い思いに気づく事です。拝まなくても拝まれている、念じなくても念じて下さるその思いに気づく事が本当のお念仏の生活です。御忌法要は、法然上人、先立たれた方々に、心を込めて、感謝の祈りを捧げる、年に一度の大切な特別法要です。是非、ご近所お誘い合わせて、お参り下さいますようご案内申し上げます。

合掌

四月十七日(土)(毎年四月第三土曜日) 


午前十一時三十分

昼食接待

午後十二時三十分

住職、阿弥陀院説教

午後一時三十分

御忌施餓鬼法要(追善供養)

午後二時半より

法然上人御忌法要(法然上人御遺徳を偲び特別法要)

納骨塔総回向(分骨の永代納骨も致します)